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あっとホームってどんな会社?

代表あいさつ あっとホームってどんな会社?

父、三郎に感謝

「お前の名前は、31 画で、棟梁数だから運がいいんだぞ」
「いずれ、必ず人の上に立つ人間になる」

それが父の口癖でした。

父の影響もあって、中村天風、安岡正篤などの本を読み漁り、哲学の「哲」の字を名前に頂 いたことの凄さを理解しました。そして、大人になったら「立派な人になりたい!」。それが、 物心ついてからの私の想いでした。

53才で、住宅会社を立ち上げ

私は、高校を卒業したあと、2年間サラリーマンをして、20才の時に、大工の修行を初めました。既に建築業界には、48年います。

岩手に戻って、兄と一緒に工務店業を営みましたが、兄の息子たちが会社に入って来たことをキッカケに、自分の長年の夢をかなえるべく、「あっとホーム」を立ち上げたのです。

53才にして、工務店を創業するというのは、少し遅いかもしれませんが、「いつかは社長になりたい」「自分の会社を経営したい」という少年の頃の想いをやっと実現させたのです。

現在、68 才、会社を作って 16 年が経過しました。

優秀で真面目な社員さん、職人さん達に支えられ、何とか地域密着で頑張って来れました。
それに、東京の証券会社に勤めていた息子も、将来の跡取りとして入社を決めてくれ、益々、大好きな家作りに没頭できると、年柄もなく有頂天になっています。

なんでこんな不景気な時に独立するのだ~? バカでないの?

独立すると友達に話した時、こんなことを言われました。「2~3年で駄目になるよ」という 人もいました。しかし、「私は運がいいから大丈夫」、友人には、そう強がりを言って創業したのです。

独立をすることを止めた友人は、既に定年退職しています。しかし、同じ歳の私は、今も「大好きな家作り」に取り組むことが出来ています。創業社長ですから、自分の引退は自分で決めることが出来るのです。

いい仕事をして、お客様に支持して頂ければ、会社も存続するし、好きな家づくりを一生だ って続けていくことが出来ます。あの時決意して、「本当に良かった」と、私は今でも、つくづくそう思います。

実は、生きていることに感謝

私は戦後まもなくの昭和22年生まれです。5人兄弟の末っ子、世が世であれば、生まれて来なかった存在です。

父が病弱だったことから、7人家族が本当に貧乏な生活をしました。

少しでも家計の助けになればと、小学生の頃には、ヤクルトの配達をしてバイト代を稼ぎました。実は、新聞配達より稼げたのです。

勉強は、からっきしダメでしたが、絵を書くことが得意でした。学校で写生大会があると、表彰されて、私の絵が張り出されたりしましたので、「将来は画家になるぞ!」と、無謀なこ とを無邪気に考えていました。

「絵」で食っていくのは難しい・・・


私の描いた油絵です

思春期をむかえた頃、流石に、「プロの画家」になることの難しさは理解するようになりまし た。歳を重ねるごとに、「夢」は遠のいて行ったのです。

高校は、父の勧めもあって、商業高校に入りました。本当は、絵の専門学校に入りたかったけど、断念したのです。高校を卒業する頃には「絵は趣味で・・・」と、すっかり夢は諦めてい ました。

就職は、堅実な繊維関係の会社にしました。

始めてもらった給料で、「油絵の道具」を買ったことを今でも、忘れられません。 絵を描けば人に褒められるし、ワクワクする。

「俺のこの特技を仕事に活かすことはできないだろうか・・・」

そう考えることが、度々ありました。 そして、気がついたのです。
私の特技を活かす道、それは建築業だと!

絵を描いている時に感じる「芸術は楽しい、芸術で飯が食えたならなぁ・・・」という想いを形に出来ると思ったのです。心が、熱くなりました。

中学時代、美術の授業で「机の設計図」を描いて、皆に褒められたのを思い出しました。

「設計の道だったら・・・」

建築は、人間空間を包む芸術です。建築ならスケールの大きな芸術活動として、生きていけると思ったのです。

「手に職をつけろ」、父に従いました

私の父は、「桶屋職人」でした。
怖い父でした。そして、優しく、尊敬できる人でもありました。

朝から晩まで一生懸命働いている職人で、いつも近所の人から人生相談を受ける人望のある人でした。相談に来た人が、父の話を聞いて喜んで帰っていく姿を見て、いつも誇らしく思ったものです。

そんな父から、ものすごく怒られたことがあります。

親に無断で神棚にあった、5円玉を失敬して友達と飴を買いに行ったのです。

その夜です。

「ここにあった5円はどうした? 友達と飴を買って食べたぁ?」
「おまえは泥棒をしたのか。我が家には泥棒はいない」
「その腐った根性をたたき直してやる」

そう言って、ゲンコツされました。
その、ゲンコツの痛かったこと・・・ そのお蔭で、人としての正しい道を学びました。

厳格で職人気質の父・・・

私は建築を志した時も、父に相談しました。
最初は、設計事務所に入ろうと思っていたのです。
しかし、父は、こう言いました。

「大工なら生きていけるから、大工からやれ」
「お前の志があれば、いずれ一級建築士も取れる」


私が彫った阿修羅像です

20才の私は、素直に父の言葉に従いました。
そして、大工修行を始めたのです。

大工修行は、楽ではありませんでした。先輩大工に厳しく躾けられました。しかし、不思議と、辛いとか、逃げ出したいとか思ったことは一度もありませんでした。

厳格で真面目で、仕事熱心な父、20才で大工修行を始めた私にも、その父の「物作りの血」が流れているのだと思います。

どうやらモノづくりが、私のDNAのようなのです。

一流を目指し関西へ

大工修行中、 「日本建築の最高峰は京都だ! 大阪で修行がしたい!」
と、若さにまかせて、関西行きを決行しました。

夢中になったら、トコトンやるタチなので、歯止めが利きませんでした。

大阪に行く途中、伊勢神宮に立ち寄りました。
「男一匹、修行で関西に行くんだ、願掛けをしよう」、そう考えました。

そして、
「私は一流になりたいのです。そのためならどんな困難も乗り越えます。我に七難八苦を与えたまえ。我に七難八苦を与えたまえ・・・」とお願いしたんです。

いや〜若さってすばらしい!
しかし、そのご利益があったのか、その後、本当に七難八苦がありました。

大阪での大工修行はとても大変でした。そして、関西弁が聞き取れないという言葉の壁もありました。「早口の関西弁」が聞き取れないのです。何を言っているのか、さっぱり分かりませんでした。

大工修行中の身としては、何度も聞き直す訳にもいかず、本当に困りました。

視力が悪いこともハンデになりました。
厚いレンズ眼鏡で、コンマ何ミリの木材加工などは、難しかったのです。


修行時代の私です

こんなこともありました。
大工修行3年目の時です。

先輩の設計事務所の人に、「高卒」であることをバカにされたのです。
負けず嫌いな私は、「テメーが高卒をバカにするのなら、大学を出てやる」と、夜間大学に通うことを決意しました。

それ以来、昼間は大工の修行、夜は、大学に通って、建築学を学んだのです。そして、一級 建築士の資格も取りました。

嫌がらせされたことが、好機になりました

ある時、勤め先の社長と、大喧嘩をしました。喧嘩の原因は、何だったか思い出せませんが、 その結果、「経験のない現場監督」をしろと言われました。大工修行もまだ終わっていない私 に、現場の棟梁として、現場を仕切れと言うのです。

「どうせ出来ないだろう」という嫌がらせのように感じましたが、負けん気の強い私は挑戦 することにしました。

そして、それをチャンスにしました。

棟梁とは便利なもので、現場で命令権があります。自分ができない所は、他の大工さんに次々と任せて行きました。そして、自分より技術のある大工さんに任せては「なるほど、そうすればいいのか」と目で見て技術を自分のものにして行きました。

「あれよあれよ」という間に現場は完成。そして、その頃には、いろんな大工の技術と知識を吸収し、私は、短期間で一人前の棟梁の実力になっていたのです。

娘の喘息がキッカケで、岩手に帰還

結婚し娘も生まれ、仕事も順調だった頃、娘が小児喘息になりました。そんな時、岩手で建築の仕事をしていた兄から、一緒に仕事をしないかという誘いがありました。

「岩手のほうが空気もいいし、娘の喘息もよくなるかも?」

そんな思いもあって、私は、岩手に帰ることを決めました。そして、兄と共に、建築会社を25年経営したのです。兄が社長、私が専務という立場でした。

「兄と一緒に立派な会社を作るんだ」

岩手に帰った私は、住宅の飛び込み営業をしました。しかし、なかなか仕事は取れませんでした。そんなとき、

「そうかお前も苦労したんだな、お前を信用する」
「お前に俺の家の新築を頼む。いい家を建てろよ」
「お前の親父も苦労人で信用の出来る人だった。その息子だから間違いないだろう」

と、言ってくれる人がいました。
私は、ありがたくて、ありがたくて、涙が止まりませんでした。
その方の家を設計し、行政手続きを済ませ、工事が始まりました。

棟上げが終わり、喜んでもらえた。
建物が完成し、本当に喜んでもらえた。

この仕事は、本当に素晴らしい。

私は、いい仕事を選んだと、心から誇らしく思ったものです。

不思議なことに、娘の喘息も、岩手に帰ったらピタッと止みました。
私は「空気環境がここまで健康に影響を与えるとは・・・」と、強い衝撃をうけました。

「空気のよい快適な環境は、家の中でつくれるはずだ」いつしかそれが私の家づくりのこだ わりになって行きました。そして、「空気がよく健康によい家」作りを目指すようになったのです。

大工の時には、「腕の良さと丁寧さ、一生懸命仕事をすること」で、施主様に喜ばれることが良いことだと思っていました。

しかし、今はそれにプラスして、あったかく暮らせて、健康的で、省エネな住宅、そして本物の素材を使った家がいいと考えるようになりました。

今現在建てている家は、冬あったかくて、夏涼しい家です。「快適でよかった」と言われると、心から「良かった」と思います。

本物作りに取り組んでいる同志との出会い

「空気のいい家とは?」
「快適な家とは?」

日々その実現に奮闘するなか、岩手の寒さ対策や、光熱費の問題、アレルギーなど様々な課題や難問に出会いました。

そして今まで数々の先生や、研究者達とも出会いました。「いいもの」に取り組んでいるのは、私だけではないんだ。と、元気づけられたり、目から ウロコが落ちる位勉強になったりと、私の家づくりの考え方も随分進化しました。

いい家づくりは日進月歩

昔と比べ、今の建築技術は進化しています。高性能と呼ばれるいい家づくりも当然のごとく、進化しています。

「ほんもの」を目指して… と言うと、「偽物があるのか」と怒られそうですが、本当に「いいもの」は、人を幸せな気持ちにさせます。

家づくりを通して、それを実現させていく事が、今の私の使命と考えています。

一生に一度の家づくりだから

独立して早16年。建築の道に入って48年。
今思うことは、「家づくりは難しい」という事です。

高度な技術と本物追及、そして住む人にやさしい家づくりとは・・・

お客様の喜ぶ顔、職人さんの誇りに満ちた顔、信頼という絆、人の顔が常に見える注文住宅一筋にこだわって頑張ってきました。

難しいけれど、家づくりは「最高の仕事」だと思います。

周りの人たちに支えられて

私が、ここまでやって来れたのも、本当に、スタッフや、お客様、そして家族のおかげだなぁと常々思っています。

みんなの支えがあったからこそ、これまで来れたと実感しております。

私は、たたき上げの大工から、「夢を実現」させて、工務店経営者になりました。
今後は、立派な経営者、立派な人間、やさしく、強く、正しい人間として生きて生きたい。論語を座右の書として、徳のある人間になりたいと思っています。

社員さんの喜び、お客様の喜び、家づくりの達成感が、私の働く原動力です。
家づくりの仕事を通じて、自分も成長し、社員さんの人格形成と成長を応援したい。

これからも「快適で、いい家」を追求し、無垢の床、塗り壁、自然素材でお客様に喜ばれる家をつくっていきます。

株式会社 あっとホーム 戸塚哲夫 お問い合わせはこちら

追伸

私は、建築は芸術だと思っています。
しかし、設計士が作る「作品」ではなく、私が建てたいと思っているのは、
家族が安心、安全に暮らせる自然素材を使った「本物の家」です。

そして、その「本物の家」を、格好よく作りたいのです。

冬の岩手の寒さを考えると、温かい家にもしたいし、お年寄りのいる家庭なら、
言われなくてもバリアフリーにしたい。

「建築が私の天職」だと思っているので、自分に誇れる仕事がしたいのです。
負けず嫌いの東北人、48 年建築一筋の私を試してください。

お客様インタビュー
実際にあっとホームで家を建てたお客様からお話を伺ってきました。

施工事例
あっとホームの施工事例です。これからどんどん追加して参ります。

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